覚めるとも思えない真っ暗なまどろみの中で、ジルは人影を見つけた。 "影" というのは正確ではないかもしれない。真っ暗闇で、その人物だけが白く縁取られたようにはっきりとそこにいる。
 身体の感覚は無かった。意識だけがふわふわと近づいていく。ひざを折って座っていたその人物は、こちらに気付いたように立ち上がる。笑みを浮かべたその顏は、間違いなくジル自身だった。

 (昔のことはね、よく憶えてないんだ。)

 うつむき加減で、困ったようにはにかみながら、彼女は語り出す。

 (父さんは本土の商人で、かなりの遣り手だったみたい。今思えば、ね。仕事の関係で半島に渡ってきたんだって言ってた。私がアリタくらいの歳の頃にね。母さんは…うん、綺麗な人だったと思うよ。綺麗な金の髪で…私も、今は短く揃えているけど昔は長かった。髪色は父さんのだけど。母さんが毎朝三つ編みに結ってくれてたっけ。…ううん…実際は父さんと母さんの顏もよく思い出せないんだ…)

 こちらから話し掛けることはできそうにない。付き合うしかないようだ。どうやら過去の話をしようとしているらしい。そう了解すると、ジルは意識を彼女に寄り添わせた。
 走馬灯、のようなものだろうか。最後に自分自身の過去を思い起こしてみるのも悪くないかな、と思うと、やがて彼女の声と、自身の意識は重なり合い、深く深く遠い記憶の中に沈んでいく。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 半島に渡ってきて、一年くらいかな。領都に住んでたのは。そう…暮らし向きは悪くなかったと思う。本土ではお屋敷に住んでいた気がするし、領都でだって、食べ物も着るものも不自由したことは無かったから。あまり家の外に出してもらえなかったから、友達はいなかったけど…
 ただ、領都に来てから父さんがずっと険しい顔をしてたのは憶えてるよ。きっと商売が上手くいってなかったんだろうね…
 
 後で聞いた話だけど、領都には商人ギルドってのがあってね。遣り手だろうと、よそ者だった父さんが受け入れられるのは難しかったんだろうなってのはなんとなくわかるんだ…対立…してたんじゃないかなって。
 それでも、仲の良い商人はいたよ。名前は…なんだったかな。顏も…わからないな。そりゃそうだよ。父さんと母さんの顏さえぼんやりとしか憶えてないのに、父さんの友達の顏なんて…
 父さんと同い年くらいで、恰幅の良いおじさんだった。いつも豪華な服を着ててね。。母さんはでも、そのおじさんをすごく嫌ってた。理由まではわからない…父さんが死んだとき、母さんはその人に向かって 「あなたさえいなければ」 って言ってた。うん…そういうことなんだろうなって思うよ。多分ね。想像することしかできないから、今更その人を恨んだりするつもりはないけど。

 父さんが死んですぐだったと思うよ。私が領都を出されることになったのは。父さんが死んでから領都を出るまでの記憶はほとんど無いから。母さんはなんだかいつも思い詰めていて、それである日突然、カサディスに行くことになったって知らされたんだ。母さんは一緒に行けないって…泣いたかな…ううん…憶えていない。きっとカサディスでの暮らしが楽しかったから…かな。

 私の記憶はいつも大体この後から。領都からカサディスに向かう旅はそう長くはなかったけど、すごく印象深いものだったんだ。そうそう、"ポーン" が護衛についてね…多分父さんの友達だったあの商人のおじさんが手配したんだと思うけど…あの当時は魔物の数もそう多くはなくて、町の外でも見かけることは珍しかったって聞いてるけど、野党や獣はそうはいかないからね。なにしろ子供一人だし…当たり前か。
 届け出を出して城の兵士に送らせることもできただろうけど、それをしなかったのは何か後ろ暗いことがあったからじゃないかと思うんだ。と、まあそれはさておき、この旅で私は初めて "ポーン" って存在に関わって…

 そして命を救われたんだ…。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


 "彼女" の一人語りは続いている。が、その姿は消えていた。真っ暗だった空間はいつの間にか白い靄に覆われ、耳を澄ませば、辺りから乾いた物音が聴こえる。規則的に響くその音は、一定のリズムを保ったまま鳴り続ける。
 音に誘われるまま一歩足を踏み出し、確かに自分が足を踏み出したことに気付いた。それまでの頼りない浮遊感は消え失せ、自分の足で硬い地面を踏みしめた感触。その瞬間、じわりと靄が晴れ、ジルは坂道に立っていた。
 緩やかな下り坂の途中。目に映るのは青空と城壁と、日差しを受けて輝く麦畑。小気味よく耳に響くのは職人たちが金槌を打ち鳴らす音。

 そこは覚束ない過去の断片ではない、ジルの確かな記憶の始まりの場所。

 
 
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